開業して3年間くらいは、スタッフの採用と管理に苦労した。看護師不足に加えて、「土日も診療」でやっていたので、給与水準を高く設定してもなかなか応募がない。やっと決まったと思ったら、電話の受け応えが非常識な人や、受付で私語する人だったこともある。人選や人の使い方については素人であったことが大きいと思うが、何度か入れ替わりがあって、4年目からやっと診療に集中できるスタッフ体制になった。… 続きを読む
やはり最も辛かったのは、2-3年目あたりの労務管理。まず私自身の労務状況が限界に達した。余裕がなくなってしまい「勤務医時代の方がまだマシだ」(笑)と思った。このままでは「自分の目指す診療はできない」「趣味の時間もなく人として疲弊する」と危機感を持った。さらにはスタッフの労務管理も行き届かず、優秀な人に辞められてしまった。患者さんが増えてもスタッフが辞めては意味がない。スタッフ補充したところでまた同じことが繰り返されるだけだと考えた。… 続きを読む
勤務医時代、日本の出産現場は実にベルトコンベアー的だと感じていた。現代日本の医療制度下では致し方ないことはわかっている。しかし、自分はもっと患者さん一人ひとりを細かくケアした医療を行いたいと思い、「オーダーメイドの出産」をかなえる医院を開業すべく準備に動き出した。しかし勤務医の給料などたかが知れている。ろくな貯金もなければ、勿論スポンサーもなかった。資金調達のためにさまざまな銀行をまわったが、どこも門前払い。自己資金も担保資産もなかったことにくわえ、当時私は34歳だったので、若さもネックだったのかもしれない。… 続きを読む
一番の苦労というわけではないが、一番最初の反省として、心に残っている出来事がある。開業して間もない頃、一人のスタッフが辞めていった。理由の一つは「患者さんの死に直面する精神的負担」に耐えられないということだった。これは緩和ケアを標榜する診療所では、致し方ない。しかしもう一つの理由は「患者不足の責任を私達に押しつけた」というものだった。… 続きを読む
「この10年の病院経営は順調だったが、最近「患者さんの世代交代」に直面。過去のやり方が通用しない患者さんが出てきた。」先代が開設した医院を受け継いで10年間、患者は右肩上がりで増え続けてきた。1か月のレセプトは2300枚に及び、うち1型糖尿病患者が120人、2型が1850人(2009年4月実績)。糖尿病患者の数でいえば、群馬・栃木・埼玉県下の大学病院と同等以上の水準になっている。… 続きを読む
スタッフ離職に悩み、診療時間後の暗い待合室で一人ボーッとすることも。「うつになったかも」と思った。当院は成功事例として取り上げられることもあるが、5年目まで内情は大変だった。開業後3年経ても「退職したい」話が後を絶たず、「私に人望がないからか」「給料がそんなに悪いのか」など心中穏やかでない日々が続いた。心労が積み重なり、人生最大のスランプだった。… 続きを読む