私は、患者さんのカラダに関わる情報は、全て知りたかった。そして自分の持てる技術と知識を総動員して治療に当たりたかった。人体、特に免疫機能は極めて複雑だ。西洋医学という「西からの光」だけでなく、「東からの光」、つまり東洋医学の力を借りれば、もっと広い範囲で患者さんを救えるはず… 続きを読む
一番の苦労は、開業当初は患者さんが少なかったこと。最初の半年間は本当に悩んだ。外来患者さんは1日10人いない状態だし、入院患者さんにいたってはほとんどゼロ。宣伝もあまりできなかったから、待つことしかできず、「大丈夫かな」「やっていけるんだろうか」と、不安で頭がいっぱいだった… 続きを読む
当院は昭和の初期からこの土地に根を下ろし、私で3代目になる。祖父の石井次三は北海道の歯科医としては草分け的存在で、札幌歯科医師会の創設にかかわり2代目の会長であったほか、北海道歯科医師会の会長も務めていた。しかし、順風満帆の状態で後を継いだわけではない… 続きを読む
人が生まれてから死ぬまでのすべてを引き受けたいと思っている。当院には内科、小児科、整形外科、産婦人科などのべ8人の専門医がいるので、お互いに協力し学びあえば一人ひとりが持っている力以上に治癒率を高めることができる。どの医師にも要請しているのは「もし病気が否定できない場合には、必ず他の医師にコンサルトしてください。漢方医学だけ、各専門領域の視点だけで完結しようとしないでください。」ということ。いわば「院内連携」だ… 続きを読む
僕はこの地域で医師を務めて約50年だが、独立開業したのは42年前だ。「借金なし、お得意さまあり」で始めたから、かなり恵まれていたと思う。それまでは、愛育病院というところに勤めていた。そこは、僕の敬愛する北海道大学の弘好文(ひろ・よしぶみ)教授が小児科の総合病院建設という構想でつくった施設だった… 続きを読む
後で述べるが、私はこだわった診療ポリシーを持っている。こだわりは往々にして、症例数を減らし、収益を圧迫する。医院経営は事務長に一任しているが、彼の提示する数字はシビアだ。経営面だけを考えるなら、「今月は物品を購入するから、症例数が○件必要」「よし、それなら診る患者さんを増やして帳尻を合わせよう」といった調整もあり得るが、私の場合はそんな柔軟にはできない… 続きを読む
「もうメスを振るうことができない。」それが、地域の一開業医になることを決意した時に、一番辛かったことだ。私の場合、自ら進んで勤務医を辞めたわけではない。同じ耳鼻科医で、この医院を経営していた父が体調を崩したため、手伝うことにしたのがきっかけであった… 続きを読む
開院した当初は、患者さんへの薬の説明や生活改善の指導など、すべて自分で行っていた。だが、患者さんときちんとコミュニケーションをとるよう、一人ひとりに時間をかけていたため、患者数が増えるにつれ時間が足りなくなってきた。他院に比べて患者数が多いという訳でもないのに、診察時間が大幅に伸びてしまい、気がつくと深夜になってしまうことも… 続きを読む
別の場所で9年開業していたが、当地にクリニックを移転した。理由は、JRの駅から近い物件だったからということ。単純に物事を決めてはいけなかったと反省している。よほど特別な事情がないかぎり、開業地の移動は元の場所から半径500m以内にしておくべきだった… 続きを読む
ところがいざ念願のクリニックを開いてみると、医療行為以外の事務・運営にあたる部分が、想像以上に大変なのに驚いた。もちろん覚悟はしていたが、スタッフのマネジメントや経理、事務処理まで、すべて自分一人で責任を持ってやらなくてはならない。総合病院なら経理などは専門のセクションがあり、別の担当者が担ってくれていた。「今までは恵まれていたんだな」と実感した。… 続きを読む