恐怖体験で「忘れられない」と「思い出せない」という矛盾が起こるメカニズムは不明
国際電気通信基礎技術研究所(ATR)は10月21日、恐怖体験後に「忘れられない強い連合記憶」と「思い出せない弱い時系列記憶」という2つの矛盾する記憶効果を説明できるメカニズムを解明したと発表した。この研究は、ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)のリサーチャー小泉愛氏、ATR脳情報通信総合研究所 行動変容研究室のアウレリオ・コルテーゼ室長、東京大学心理学研究室の今水寛教授、大畑龍研究員らの研究グループによるもの。研究成果は、「Nature Communications」に掲載されている。
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強い恐怖を伴う記憶は「忘れること」が難しく、ヒトを苦しめることがある。例えば、自転車のベルを聞いた直後に車に衝突された場合、自転車のベルを聞くたびに恐怖がよみがえってしまう可能性がある。反対に、恐怖記憶は「思い出すこと」が難しくなり、ヒトを悩ますこともある。例えば、車に衝突するまでに何がどのような順番で起きたのか思い出せないというように、一連のエピソードの時系列についての記憶が支離滅裂になってしまう場合もある。これらの恐怖記憶の現象は、PTSDの発症につながる可能性もある。しかし、これまでの研究では「忘れられない」という現象と「思い出せない」という現象が互いに独立に研究されてきたため、2つの現象を説明できる包括的なメカニズムは解明されていなかった。
エピソードに関わる時系列が恐怖記憶に取り入れられる過程を人工知能で解析
研究グループはこの問いに迫るべく、連合記憶と時系列エピソード記憶の双方を形成する独自の実験パラダイムを開発した。具体的には、自動車事故を模した映像を用い、信号音・カラスの鳴き声・自転車のベルといった、自動車道では一般的に耳にする音が事故に先行して聞こえてくる順番を操作した。このパラダイムを用いることで、事故直前に聞いた音を聞いた時に、音の時系列に関わらず恐怖がよみがえるのであれば、音と恐怖の連合が恐怖記憶を司っていることが伺える。一方、事故当時と同じ音時系列が再現された時にだけ限定的に恐怖反応がよみがえるのであれば、エピソード由来の時系列が恐怖記憶を司っていることが伺える。
また、エピソードに関わる時系列が恐怖記憶に取り入れられる過程を、人工知能技術の一つである「スパース機械学習アルゴリズム」を用いて解析した。具体的には、エピソード時系列に関わる空間的活動パターンを、スパース機械学習アルゴリズムで海馬や背外側前頭前野からデコード解読した。さらに、海馬や背外側前頭前野から解読された時系列情報が、(扁桃体と腹内側前頭前野から形成される)恐怖記憶を司る神経回路の活動パターンから解読できるかを検証するというデコーディング解析を重ねる解析手法を用いることにより、海馬や背外側前頭前野に表象された時系列情報が恐怖記憶回路に取り込まれる過程を追った。
恐怖体験の当日は、単純な音刺激と恐怖の連合学習に基づき記憶している可能性
実験は(1)~(3)のステップで実施した。(1)まず、模擬的な自動車事故にまつわる恐怖記憶を、安全な古典的実験手法を応用したオリジナルの時系列条件付け課題を用いて形成した。具体的には、自動車事故を模した映像を用い、事故が発生するタイミングに先行して信号音・カラスの鳴き声・自転車のベルといった音を特定の順番で映像と共に流した。これにより、もし単純な連合学習が成立すれば、事故直前に聞いた音を耳にしただけでも、恐怖反応が生じるようになる。しかし、もし事故エピソード由来の時系列情報も記憶に統合された場合は、事故時に聞いた音の順番が再現された場合に限定して恐怖がよみがえるようになる。(2)その同日、約10分の休憩を挟み、被験者が連合学習に基づいて過剰に対象の広い恐怖反応を示すのか、時系列記憶に基づいて適度に対象の狭い恐怖反応を示すのかどうかをテストした。(3)その翌日、再び被験者の恐怖反応を(2)と同じ方法でテストした。
模擬的な事故を経験した同日、10分の休憩を挟んで恐怖記憶のテストを実施。被験者は(1)と同様に、交通シーンを模した映像を繰り返し視聴する。各シーンでは、信号音・カラスの鳴き声・自転車のベルという3種類の音が(1)と同様に3パターンの時系列のうちのいずれかで流れてくる。この(2)のテストでは事故は発生せず、(1)の恐怖経験による記憶に基づいた恐怖反応を検証することを目的とした。(1)で記述したように、3パターンの時系列のうち、実際に事故エピソードと結びついている時系列は1パターン(時系列再現パターン)のみだ。しかし、残りの事故とは直接関係のない2パターンの時系列うちの1パターンの時系列の最後に流れる音の種類(自転車のベルなど)は、恐怖時系列パターンの最後に流れる音の種類と同一だった。この最後の音の種類が恐怖時系列パターンと同一の時系列パターンを部分音再現パターンと呼ぶこととする。3つ目のパターンは時系列も最後の音の種類も時系列再現パターンとは異なるため、再現なしパターンと呼ぶこととする。もし、被験者が事故直近の最後の音と恐怖の間の連合学習をもとに恐怖体験を記憶していた場合、被験者は、音の時系列に関わらずに恐怖反応を示すと予測される。
これらのテストで、被験者は時系列再現パターンと部分音再現パターンの双方に対して同じように(ベースラインの再現なしパターンと比べて)恐怖反応を示したことから、恐怖体験当日の時点では、事故エピソードにまつわる音の時系列ではなく、単純な音刺激と恐怖の連合学習に基づいて恐怖体験を記憶していることが示唆された。
翌日以降は恐怖体験の時系列を記憶に統合し、恐怖の対象が狭まると判明
さらに翌日、(2)とほぼ同様の手順で恐怖記憶テストを同じ被験者に実施した。すると、被験者は(ベースラインの再現なしパターンと比べて)時系列再現パターンに対して選択的に恐怖反応を示し、部分音再現パターンに対しては恐怖反応を示さなくなっていることが明らかになった。つまり、恐怖体験当日には単純な音と恐怖の連合記憶が恐怖反応を制御していたにもかかわらず、その翌日には複雑な音の時系列エピソードの記憶が恐怖反応をするようになるという現象が明らかになった。
一般的に、恐怖体験の直後のタイミングは、まだ身の回りに危険が溢れている可能性が高い状況だ。ヒトはそうしたタイミングでは、連合記憶に基づいて恐怖を制御することによって、危険を予測する可能性が少しでもある単純な刺激(今回の実験では音)に基づいて危険を予期して恐怖反応を幅広い場面で汎用的に示すことにより、危険に身を晒すリスクを下げようとする可能性がある。一方、翌日には個々の刺激ではなく、複数の刺激から成るエピソード時系列に基づいて危険な出来事を想起することにより、恐怖反応が生じる場面を限定し、同じような危険に身を晒すリスクを最低限下げながらも、日常生活を取り戻すことができるのかもしれない。
恐怖記憶の熟成には海馬に代わり背外側前頭前野が恐怖制御回路の制御をリード
さらに、どのような脳メカニズムによって恐怖体験の当日から翌日にかけて恐怖記憶が変化していくのかについて、同研究ではfMRIで計測した脳活動シグナルを機械学習アルゴリズムで解析した。具体的には、まず、さまざまな出来事の時系列を処理することが先行研究から示唆されている海馬や背外側前頭前野に着目し、それらの領域からエピソード時系列に関わる空間的活動パターンを、スパース機械学習アルゴリズムを用いてデコード解読した。次に、海馬や背外側前頭前野に表象されている時系列情報が、扁桃体-腹内側前頭前野から形成される恐怖制御回路の活動パターンから解読できるかをデコード解析した。このように、二重にデコード解析を重ねる手法を用いることにより、海馬や背外側前頭前野に表象された時系列情報が恐怖記憶回路に取り込まれる程度が、恐怖体験当日と翌日で異なるのか否かを検証した。
解析の結果、恐怖体験当日は、(1)記憶形成と(2)当日の双方のタイミングにおいて、海馬と背外側前頭前野が同程度に時系列パターン(時系列再現パターンと部分音再現パターンの表象)を恐怖制御回路に伝達していることがわかった。しかし、(3)翌日テストでは海馬がこの時系列伝達機能から退き、背外側前頭前野のみが時系列情報を伝達し続けることが明らかになった。その他の複数の関連解析の結果から、海馬は恐怖体験に時間的に接近した最後の音に基づいた情報伝達を積極的に担うのに対して、背外側前頭前野は恐怖体験に固有な(複数の音から成る)時系列に基づいて恐怖記憶回路を制御する可能性が示唆された。
これらのことから、恐怖体験当日は海馬が積極的に関与することによって、例え恐怖体験時の時系列が再現されなくとも、危険の時間的接近を示す刺激音と恐怖の単純な連合に基づいて過度に恐怖の対象が広げられると考えられる。一方、翌日には海馬が関与しなくなることで、恐怖体験の時系列が再体験されたか否かに応じて背外側前頭前野が恐怖反応を制御できるようになり、適度に恐怖の対象が狭められると考えられた。
PTSD発症リスクの高い人は恐怖体験当日のまま記憶の熟成が止まり、制御不可の可能性
このように、恐怖体験の翌日には、背外側前頭前野がエピソード時系列に基づいて恐怖を制御するようになることが被験者全体の傾向から明らかになった。しかし、こうした脳機序の経日変化は、被験者全員に一様に起こるわけではなかった。特性不安(性格としての不安)が高い人ほどPTSD発症リスクが高いことが知られているが、特性不安が高い被験者では、(3)翌日テストのタイミングにおいて、背外側前頭前野が恐怖制御回路を構成する腹内側前頭前野を(海馬と比べて)優位に制御しないことが明らかになった。このことから、PTSD発症へのリスクが高い人では、あたかも恐怖体験当日のままのように恐怖記憶の熟成が止まり、エピソード時系列をうまく恐怖制御に反映できなくなる可能性が考えられる。なお、不安特性と恐怖反応そのものの間の有意な相関は見られなかったことから、このような解釈については、今後さらに検証を重ねて妥当性を確かめる必要があるとしている。
恐怖記憶の経日変化や記憶定着のメカニズムについて、引き続き検証が必要
今回の研究で、これまで統合されてこなかった2種類の恐怖記憶現象を包括的に説明できるメカニズムが解明されたことにより、PTSDなどの恐怖記憶の障害について、局所的な理解を脱してより大局的なメカニズムに関する示唆が得られた。
また、同研究ではPTSD発症リスクが高い高不安者は、恐怖体験の翌日になっても恐怖記憶をエピソード時系列に基づき制御する背外側前頭前野の働きが相対的に弱いことが明らかになった。同知見はトラウマを体験した後、翌日を迎えるまでの時間窓を対象に、背外側前頭前野の機能を高める何らかの介入を施すことによって恐怖記憶の熟成を促し、(恐怖体験当日に特徴的な)連合学習によって過度に恐怖の対象が広がった状態が長引くことを防げる可能性が期待できる。
「本技術には臨床的意義があるが、現段階では、健常者を対象とした基礎研究の段階にある。実生活において極度な恐怖記憶を形成された場合にも、本研究と同様のメカニズムが記憶の熟成を支えるのかどうかは、まだ今後検証していく必要がある。また、恐怖体験当日から翌日にかけての時間窓に、脳内ではどのような記憶の処理が施されているのかは不明だ。このような記憶を熟成させながら定着するメカニズムを検証するためには、安全と倫理に最大限配慮した上でさらにより直接的かつ侵襲的な研究手法も交えながら検証を重ねる必要がある」と、研究グループは述べている。
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