トラウマ記憶の神経細胞ネットワークや生み出されるメカニズムは未解明だった
生理学研究所は10月6日、光学と機械学習の融合的新手法によりトラウマ(心的外傷)記憶に関わる脳神経細胞ネットワークを検出することに成功し、記憶形成に伴う複雑な変化を捉え、トラウマ記憶ができる仕組みを明らかにしたと発表した。この研究は、同研究所の揚妻正和准教授(現在、量子生命科学研究所と兼任)、鍋倉淳一所長、大阪大学 産業科学研究所の永井健治教授らの研究グループと、東京大学、玉川大学、メキシコ自治大学、名古屋大学、大阪大学との国際共同研究グループによるもの。研究成果は、「Nature Communications」に掲載されている。
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恐怖心の制御はヒトや動物の生活で非常に重要だ。一方、いわゆるトラウマ記憶のように、強い恐怖体験の記憶が日常の無関係な感覚刺激によっても呼び起こされてしまうことも、しばしば起こる。これらは侵入的想起、フラッシュバックと呼ばれ、脈絡なく引き起こされる辛さ・苦しさにより、実生活にさまざまな不自由を強いられることが大きな問題となっている。
20世紀初頭からトラウマ記憶に関する研究は活発に行われてきた。例えば、マウスが音を聞いている最中に微弱な電気刺激を与えると恐怖反応(すくみ)を示す。学習翌日には電気刺激を与えなくても音を聞かせるだけで恐怖反応を示し、音に対してのトラウマ記憶が形成されていることがわかる。これは、本来無害な音と、もともと嫌な弱い電気刺激を同時に経験すると音に恐怖心を抱くようになる「恐怖連合学習」と呼ばれる仕組みであり、この実験系を使ったモデル動物の脳科学研究は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)など、トラウマに関わる精神疾患のメカニズム解明に有効と考えられている。
脳はこのような感情や情動、そして関連する記憶を制御する重要な器官だ。トラウマ記憶を制御する脳領域として大脳皮質の「前頭前野」の関与が多くの研究により指摘されている。さらに近年の研究により、トラウマ記憶は多くの神経細胞集団によって保持されていることまでわかってきた。一般に脳神経細胞は、集団でネットワークを作ることでコンピューターのように情報処理を行うと考えられている。しかし、トラウマ記憶を情報処理するような神経細胞ネットワークがあるのかは不明であり、それらの細胞集団がどのような仕組みで生み出されるのかもわかっていない。トラウマ記憶のネットワークや生み出されるメカニズムの理解が進めば、PTSDなど難治性の精神疾患の治療法開発に新たな突破口をもたらすことが期待される。
前頭前野における大規模な神経細胞集団の活動を長期的に記録する手法を開発し解析
そこで研究グループは、脳の前頭前野に記憶されるトラウマの実態解明に着手。マウスを用いて、音・弱い電気刺激による恐怖連合記憶の実験系により研究を進めた。
トラウマ記憶が生まれるメカニズムを調べるには、その成立前後で同じ細胞集団の活動を比較することが重要だと考えた。そこで、「光」で生きた動物の脳を長期的に計測できる「in vivo 2光子イメージング」に「低侵襲なプリズム埋込法」と「イメージング中に記憶課題を実施するための新装置」を統合した新規手法を開発した。これにより、トラウマ体験前と後の両方で、脳深部にある前頭前野の大規模な神経活動観察を実現し、神経細胞集団の活動「変化」から、トラウマ記憶の実体を捉えることが可能となった。
体験がトラウマ化する際、神経細胞集団が新規機能的ネットワークを形成
さらに、従来研究とは異なりトラウマ記憶の神経細胞集団を同定した上で、記憶獲得前の神経活動データに遡って違いを検出し、「記憶が生まれる仕組み」の解明を目指した。大規模神経活動データの解読からトラウマ記憶(学習後に起こる恐怖反応)に強く関わる神経細胞集団の同定を試みたが、従来手法では困難だった。それは、観察対象である前頭前野が恐怖記憶以外にも多くの情報や脳機能を同時に制御していることが一因にあると考えた。そして、エラスティックネットと呼ばれる機械学習解析の検出力の高さを生かした「トラウマ記憶を担う神経細胞集団を高精度で選別する手法」の開発に成功した。加えて、グラフィカルモデリングという最新の数理解析技術により、トラウマ記憶を担う集団の中で神経細胞同士がどのように制御し合うか、「神経細胞ネットワーク内部の機能的結合状態」を算出し、トラウマ記憶の実体を詳細に調べた。
その結果、トラウマ体験後に新たに生まれる「トラウマ記憶の神経細胞ネットワーク」は、体験によって特定の細胞集団の内部結合(機能的結合)が増加することでできていることが判明した。さらにグラフィカルモデリングの特性を生かしてネットワーク構造変化を詳細に調べたところ、トラウマ記憶の引き金となる「弱い電気刺激」に関連する神経細胞と、本来無害な「音」に関連する神経細胞が、最初は無関係だったがトラウマ体験後に新たに機能的結合を作る(ネットワークを形成している)ことが判明。これにより、「連合回路」が生まれていることが明らかになった。
トラウマ体験に強く活動する細胞を「ハブ」として経験依存的ハブネットワークを形成
また、「弱い電気刺激」の神経細胞は、トラウマ記憶ネットワークの「ハブ」になるような役割持つ傾向があることが観察された。これらの結果から、トラウマ記憶は「トラウマ体験(弱い電気刺激)」に強く活動する細胞をハブとして「経験依存的ハブネットワーク」を形成することが判明した。さらに、PTSDの治療にも使われる「消去学習」により恐怖反応が出にくくなったマウスでは、これら神経細胞集団の活動およびその情報処理が破綻していることも観察され、このトラウマ記憶ネットワークの活動や情報処理を特異的に抑えることが治療への鍵になることも示唆された。
PTSDなど難治性精神疾患に対する新たな突破口となることに期待
今回の研究により、世界で初めて「体験がトラウマ化する際、恐怖体験に強く反応する神経細胞をハブとする新たな情報処理ネットワークを形成し、恐怖記憶に関する情報処理を行う様子」を捉えることに成功した。
「将来、これらの細胞の働きを抑えることができれば、PTSDなどトラウマ記憶による弊害を緩和することができる可能性がある。また、今回開発した神経ネットワーク評価法は、精神疾患治療薬の効果の新指標となるかもしれない」と、研究グループは述べている。
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・生理学研究所 プレスリリース