患者への負担が小さい重粒子線がん治療、普及には装置の小型化が不可欠
量子科学技術研究開発機構は8月30日、レーザー・プラズマ加速を用いたレーザー駆動イオン入射装置の原型機を世界で初めて開発し、小型重粒子がん治療装置「量子メス」の実現に向けた統合試験を開始したと発表した。この研究は、同機構量子技術基盤研究部門関西光量子科学研究所量子応用光学研究部革新プロジェクト・量子メスプロジェクトの榊泰直上席研究員(兼 九州大学大学院総合理工学研究院連携講座教授)、小島完興主任研究員、住友重機械工業株式会社、日立造船株式会社らの研究グループによるもの。研究成果は、第20回加速器学会年会で発表された。
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がんの生涯リスクは、日本において男性で65%、女性で50%と推定されており、がんの診断や治療に関する研究開発は重要な課題である。このような社会的背景の中で重粒子線がん治療は、患者の身体に与える負担が小さく、治癒後の社会復帰が容易であるため、QOL(Quality of Life:生活の質)の観点から近年、注目を集めている。
日本では1994年に、世界初の重粒子線がん治療装置(HIMAC)が稼働した。現在、国内では7箇所(千葉、兵庫、群馬、佐賀、神奈川、大阪、山形)で重粒子線がん治療装置が稼働中であり、これは米国、ドイツ、中国などを超えて世界一の稼働台数である。しかしながら、国内7施設を合わせても1年で治療を受けられる患者数は4,000人程度に限られており、これは日本で新たに見つかるがん患者の0.4%程度にすぎない。そのため今後、治療装置の小型化による全国的な普及が不可欠であると考えられている。HIMACの稼働後、現在は普及型と呼ばれる小型化された装置が導入可能になっているが、いまだに加速器のための建屋(60m×45m程度)を新たに建設する必要が生じるため、普及の障害となっている。
この状況を打破すべく、同機構は2016年の発足から、既存する装置を約1/40(面積比)に小型化する「量子メス」と呼ばれる次世代小型重粒子線がん治療装置の開発プロジェクトを推進している。これが実現できれば既設の建物内に設置可能になるので建屋の建設費を抑えることが可能になる。量子メスの開発が完了し、低侵襲的な(身体を傷つけない)がん治療が広く普及すれば、現役世代に向けてはライフサイクルを乱さない日帰りがん治療が、高齢世代に向けては術後の体力回復に依存しないがん治療が、より一般的に提供可能になると期待される。
重粒子線がん治療装置を構成する2つの加速器のうち、イオン入射装置の新技術を開発
一般的な重粒子線がん治療装置は、炭素イオンを加速する2つの加速器で構成される。1つ目は、炭素イオンを発生させ、光の速度の約9%にまで予備的に加速する「イオン入射装置」であり、2つ目は、イオン入射装置で生成された炭素イオンを人の体内にあるがん細胞にまで届けるために必要な速度(炭素イオンで光の速度の約73%)にまで加速する「シンクロトロン」である。次世代型の重粒子線がん治療装置である「量子メス」開発プロジェクトでは、これら両方の加速器にそれぞれ新しい技術を導入することで、装置の小型化と高度化を図る計画である。今回、1つ目の加速器に相当するイオン入射装置の新技術開発を行った。
装置を大幅に小型化するため、レーザー光による「イオン加速現象」を利用
イオン入射装置の小型化に重要な役割を果たす、レーザー光による「イオン加速現象」は、高い出力のレーザー光を時間・空間的に集めて(1018W/cm2以上)、わずか数ミクロン程度の厚さの標的薄膜に照射すると、薄膜を構成する原子がイオン化すると同時に瞬時に加速され、まるで弾丸のように飛び出してくる現象である。
このイオン加速の起源は、レーザー光が標的薄膜上にごくわずかな時間だけ生成する強烈な加速電場にある。レーザー光が生み出す加速電場の強度は、既存の加速器で用いられる電場強度と比較して数百万倍の強さに相当し、既存の加速器で15m必要であった加速距離が、レーザーイオン加速では数百万分の1程度(数ミクロンに相当)と桁違いに短縮される。そのため、イオン加速部分以外の装置(レーザー装置や発生した高速イオンを伝送する装置など)を小さく作ることができれば、装置全体の大幅な小型化につながる。
レーザー装置・イオン加速・イオン輸送部分の装置を統合し原型機完成、統合試験実施中
研究グループは、レーザー加速に必要なレーザー光を発生する「レーザー装置」に加え、レーザー光を標的に照射してイオンを加速する「イオン加速部分」と、発生したイオンビームを制御しながらシンクロトロンへ輸送する「イオン輸送部分」の2つの装置をそれぞれ個別に開発し、この度それらの要素技術を統合し、世界初のレーザー駆動イオン入射装置の原型機を完成させた。
イオン加速部分に関しては機能性薄膜を連続生成可能な高い成膜加工技術と、高純度炭素イオン発生のための標的技術を組み合わせ、標的薄膜を安定かつ連続的に供給されるような技術を開発した。また、標的薄膜を急速に加熱することで表面に吸着する汚染物質を除去する加熱システムを開発した。
イオン輸送部分に関しては従来方式の小型イオン加速器に関する高い技術と、レーザー駆動炭素イオンビーム技術を組み合わせることで、効率的なイオン輸送システムを開発した。イオン輸送システムの構築に必要な電磁石群は、理化学研究所の協力により、SPring-8の線型加速器部分に利用されていた電磁石群を同機構に移設し、適切に再配置することで開発時間の短縮化、低コスト化を実現した。2023年3月までにレーザー駆動イオン入射装置の原型機の組み上げが終わり、2023年6月から、世界に先駆けて原型機の統合試験を開始した。
今後3年間をめどに最終的な量子メスのデザインが確定される予定
今回、稼働したレーザー駆動イオン入射装置の原型機を使い、レーザー装置、イオン加速部分、イオン輸送部分をそれぞれ最適化することで、量子メスに搭載する最終的なイオン入射装置のデザインを進める。コンピュータシミュレーションで多くの物理現象を正確に予測可能になってきたが、現時点でレーザーイオン加速を活用したレーザー駆動イオン入射装置の全ての物理過程を予測できるシミュレータは存在しない。そのため、レーザ―駆動イオン入射装置の各要素の最適化には、今回稼働した原型機から得られるデータが欠かせない。また並行して全物理工程を計算できる統合シミュレータの開発も開始している。「今後3年間をめどに、実験データとシミュレーション結果の両面から、最終的な量子メスのデザインを確定する予定であり、量子メス開発はいよいよ最終形の設計に向け大きく前進する」と、研究グループは述べている。
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・量子科学技術研究開発機構 プレスリリース