意識は主観的で直接観察できないため、意識理論を実験的に検証するのは困難
神戸大学は2月17日、ヒト脳オルガノイドがもちうる意識の問題を検討し、ヒト脳オルガノイド研究を進めるうえでの倫理的枠組みを提案したと発表した。この研究は、同大大学院人文学研究科の新川拓哉講師が、埼玉医科大学の林禅之助教、カールトン大学のジョシュア・シェパード准教授、京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi)の澤井努特定助教と共同で行ったもの。研究成果は「Neuroethics」に掲載されている。
近年の幹細胞生物学の飛躍的な進展により、iPS細胞やES細胞といった多能性幹細胞を分化誘導し、生体と類似の構造をもつ三次元脳組織を試験管内で作製する技術が開発されている。このように体外で作製される三次元脳組織を「脳オルガノイド(brain organoid)」と呼ぶ。ヒト脳オルガノイド研究は着実に進歩しており、将来的に、成熟したヒトの脳に極めて近い脳オルガノイドが作製される可能性がある。
一方で、ヒト脳オルガノイドを作製し、実験利用することは道徳的に許容されるのか、またこうした脳オルガノイドを用いた研究に倫理的な制約は必要ないのかという問いは十分に検討されていない。特に、ヒト脳オルガノイドが意識をもつ可能性を考慮すれば、こうした問いに答える緊急性は高いと言える。快苦を感じるような脳オルガノイドを生み出し、それを単なるモノとして実験利用することは倫理的に問題だと考えられるからだ。他方で、創薬・疾患研究におけるヒト脳オルガノイドの高い利用価値を考えると、ヒト脳オルガノイド研究を全面的に禁止するのも過度な規制のように思われる。
そもそも、意識は主観的現象であり、外側から直接的に観察できない。そのため、ヒト脳オルガノイドが意識を持つかどうかを争点にした場合、水掛け論になることが予想される。こうした状況のもと、ヒト脳オルガノイドが意識をもつ可能性を考慮したうえで、ヒト脳オルガノイドを用いる研究を適切に規制するための倫理的枠組みが求められている。
「意識についての予防原則」を採用した倫理的枠組みを提案
今回の研究ではまず、ヒト脳オルガノイドが意識をもちうるかどうかを、既存の有力な意識理論の観点から検討した。具体的には、汎心論(panpsychism)、統合情報理論(Integrated Information Theory)、一階の表象説(First-Order Representationalism)、高階の表象説(Higher-Order Representationalism)、エナクティビズム(Enactivism)、生物学的自然主義(Biological Naturalism)といった意識理論において、脳オルガノイドが意識をもつ可能性が認められるかを検討した。汎心論や統合情報理論では、現在すでに作製されている脳オルガノイドでさえ意識をもつと認められる。他方で、生物学的自然主義、一階の表象説、高階の表象説においては、脳オルガノイドの発達度合いによって意識をもつ可能性がある。また、エナクティビズムのように、脳オルガノイドが意識をもつ可能性を原理的に認めない理論もある。
そうした意識理論のどれが正しいかについては論争が続いており、また、新たな理論が次々と提案されている。そのため、ヒト脳オルガノイドがどの程度発達すれば意識をもちうるかという問いに対して決定的な答えはすぐに出そうにない。したがって、ヒト脳オルガノイド研究に対してどのような倫理的枠組みが必要なのかも明らかではない。
この状況を打破するため、研究グループは今回、「意識についての予防原則」を採用した。ヒト脳オルガノイドが意識をもつにもかかわらず、意識はないとみなして実験利用を行えば、その脳オルガノイドに対して多くの害が及ぶ。この原則は、そうした害ができるだけ生じないよう予防的に振る舞うことを要求するものだ。この原則を採用することで、説得的な意識理論のうち一つでもヒト脳オルガノイドが意識をもつことを認めるものがあるなら、その可能性を重くみて、そこに意識があると仮定して倫理的な判断をすべきだということになる。
快苦を伴う意識経験をもちうるかなど、発達度合い等から推測する方法論を提示
ここで重要なのは、ヒト脳オルガノイドが意識をもつと認めるだけでは、それにどの程度の倫理的配慮が必要になるのかは決まらないという点、またヒト脳オルガノイドがどのような種類の意識経験をもつのかという点だ。たとえば、極めて原始的な「明るさの感覚」しかもたない存在者、心地よさや不快さといった感覚をもちうる存在者、より複雑な自己意識や記憶ももちうる存在者を比べると、必要な倫理的配慮が異なる。基本的には、正負の価をもつ(快苦が定義できる)意識経験をもつか、またそうした意識経験がどれくらい複雑で洗練されたものであるかに応じて、倫理的配慮もより高度になると考えられる。
以上の点を踏まえて、今回の研究では、ヒト脳オルガノイドがどの種の意識経験をもちうるのかを推測する手法を提案した。具体的には、科学的な意識研究において幅広く収集されている、標準的な人間の意識経験と脳の構造的・生理学的・機能的・認知的特徴の相関データを手がかりに、脳オルガノイドの代謝量や構造や活動パターンなどから、どのような種類の意識経験を備えているかを推測した。この方法を用いれば、現在作製されているヒト脳オルガノイド、また、将来的に作製されるヒト脳オルガノイドがどのような種類の意識経験をもちそうか推測することが可能になる。ただし、この方法は暫定的なものであるため、科学的意識研究の進歩に合わせてさらなる改良を重ねる必要がある。
上記の方法を用いて、現在作製されているヒト脳オルガノイドも、きわめて原始的ではあるが、正負の価をもつ意識経験をもつ可能性があると指摘。しかし、実際にそうだったとしても、ヒト脳オルガノイドを用いた実験研究を直ちに禁止すべきだとの結論にはならず、ヒト脳オルガノイドに不要な害を与えないよう配慮しながら適切に実験研究を行うことが推奨される。ヒト脳オルガノイドを用いた創薬・疾患研究によって人間の福利が大きく向上するなら、ヒト脳オルガノイドが被る害は必要悪として正当化できるからだ。
「研究から得られる利益が害より大きい」など7つの指針
今回提案した、ヒト脳オルガノイド研究を適切に進めるための倫理的枠組みは、以下7つの指針を含んでいる。
1. 脳オルガノイド研究から得られると予測される利益は、脳オルガノイドが被ると想定される害よりも大きくなければならない。
2. 脳オルガノイドの研究利用は、正負の価をもつ意識経験をもたない試料の研究利用では達成できない目的がある場合に限定すべきである。
3. 脳オルガノイドを研究目的に作製する際、研究目的を達成するのに必要な数の作製にとどめるべきである。
4. 研究目的を達成するのに必要な程度を超えて、脳オルガノイドが害を被らないようにしなければならない。
5. 研究目的を達成するのに必要がない限り、脳オルガノイドが長期間にわたって害を被ることは避けるべきである。
6. 研究目的を達成するのに必要がない限り、脳オルガノイドがもちうる正負の価をもつ意識経験の種類ができるだけ増えないようにすべきである。
7. 脳オルガノイドは、どの種類の正負の価をもつ意識経験をもちうるかに応じて分類すべきである。また、より低次の脳オルガノイドで研究目的が十分に達成される場合は、高次の脳オルガノイドを利用すべきではない。
人工知能やロボット研究など隣接分野への展開も期待される
今回の研究で提案したヒト脳オルガノイド研究の倫理的枠組みを用いることで、ヒト脳オルガノイド研究の倫理性を担保しつつ、同時に創薬・疾患研究への利用を過度に規制することなく、ヒト脳オルガノイド研究を進めることが可能になる。また、この倫理的枠組みは、人工知能やロボット研究など、「意識をもつかもしれない存在者」を生み出す可能性のある隣接分野にも展開することにより、より包括的な倫理的枠組みを構築することが期待される。
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