宇宙放射線が精子および次世代へどのような影響を与えるか
山梨大学は6月7日、国際宇宙ステーション(ISS)を利用した生物学実験で、史上最長となる5年10か月間ISSに保存したマウスのフリーズドライ精子から健康なマウスを多数作出することに成功したと発表した。この研究は、同大大学院総合研究部発生工学研究センターの若山清香助教、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の鈴木智美研究開発員、量子科学技術研究開発機構、日本宇宙フォーラムなどの研究グループによるもの。研究成果は、「Science Advances」にオンライン掲載されている。
画像はリリースより
近年、月だけでなく火星への有人探査の計画が本格的になってきた。近い将来、月面基地やスペースコロニーなどが建設され永住する時代が来るとされている。その時代には、人類だけでなく家畜の生殖・繁殖も必要になるが、宇宙環境は無重力や強力な宇宙放射線が降り注ぐため、本人だけでなく子や孫世代への影響が懸念される。しかしマウスなどの哺乳類は宇宙での飼育が難しく、これまで哺乳類の宇宙生殖実験はほとんど行われたことがなかった。
山梨大学の研究グループらは、以前から哺乳類の宇宙生殖に関する研究を行ってきた。地上の疑似宇宙環境での実験には限界があり、実際に宇宙で実験する必要性を強く感じていたという。そこで、研究代表者らが開発した「フリーズドライ精子」を用いて、宇宙放射線が精子および次世代へどのような影響を与えるのか調べる研究を、JAXAの「きぼう」船内実験室第二期利用(2009年)に応募した。フリーズドライ精子を用いれば、液体窒素を使わなくても国際宇宙ステーション(ISS)内で精子を長期間保存できること、小さくて軽いため打ち上げコストが安いこと、難しい実験を宇宙飛行士に依頼する必要がないことがこの研究の強みだった。
最長5年10か月間、ISSでフリーズドライ精子を保存
同研究は「きぼう」搭載候補テーマとして選定後、宇宙実験を行うためのさまざまな条件をクリアし、2012年に最終審査に合格、そして2013年にH-IIBロケットでISSに打ち上げられた。2014年に回収した最初の試料により破損などの技術的な問題はないことが確認され、世界初となる哺乳類の精子を用いた宇宙生殖研究が本格的にスタートした。
宇宙実験を絶対に成功させるため、4種類のマウス系統から合計66匹の雄マウスを用い、それぞれの個体から30本以上のフリーズドライ精子が入ったガラスアンプルビンを作製し、ロットチェックにより成績上位12匹を選定した。それぞれの個体のフリーズドライ精子は6グループ(箱)に分け、3箱は「きぼう」内の冷凍庫で9か月間(以下、1年間保存)、2年9か月間(3年間保存)および5年10か月間保存し(6年間保存)、残りの3箱は地上保存区(対照区)として、JAXAの筑波宇宙センター内の冷凍庫で、宇宙保存用と同じ条件(同温度・同期間)で保存した。
宇宙保存用の3箱は、2013年8月4日にH-IIBロケット4号機/宇宙ステーション補給機「こうのとり」4号機で打ち上げられ、第1回の回収となる2014年5月19日に米国のスペースX社のドラゴン補給船運用3号機で1箱目は地上に回収された。第2回目は2016年5月12日に同8号機で、第3回目は2019年6月4日に同16号機で回収された。
ISSで6年保存した精子の宇宙放射線被ばく量は吸収線量869.8mGy、対照の約170倍
フリーズドライ精子の放射線耐性の限界を明らかにするため、この実験と並行して地上で、フリーズドライ精子および新鮮精子にX線を0~30Gyまで照射した。X線照射実験により、フリーズドライ精子のDNA損傷度は被ばく量が増加するにつれて増加したが、放射線耐性は新鮮精子に比べ非常に高く、最大で30Gyまで照射した精子からも産仔を得ることができた。これは新鮮精子の約10倍の耐性があることを意味するという。
次いで、ISSで6年間保存した精子の宇宙放射線被ばく量を、JAXAが開発したPADLES線量計を使って測定したところ、合計被ばく量は、吸収線量869.8mGy(線量当量1302.9mSv)であった。1日当たりにすると0.41mGy(0.61mSv)で、これはJAXAの筑波宇宙センターで保管した地上保存区(対照区)の約170倍の線量に相当した。
フリーズドライ精子の宇宙保存の影響については、宇宙で3年間、および6年間保存した精子のDNAダメージを、地上で3年間および6年間保存した精子と詳細に比較した。その結果、細かいDNAダメージや受精能力については、宇宙3年間と宇宙6年間の間だけでなく、宇宙区と地上区の間にも全く差が見られなかった。使用したマウス系統すべてで同様な結果だった。しかし、重度のDNA損傷を示す染色体分配異常は宇宙保存で増える傾向が見られた。
宇宙保存精子を用いた胚で質の低下は見られたが、正常な産仔が生まれた
宇宙保存精子を用いた受精卵の正常性について比較。胚盤胞への発生率については全く影響が見られなかったが、宇宙で6年間保存すると若干だが胚盤胞の細胞数が低下する傾向が見られ、またアポトーシス陽性細胞数が宇宙保存全体で増える傾向が見られた。
受精卵を雌マウスへ移植して産仔への発育率を調べると、宇宙で3年間保存した場合(12.3%)と6年間保存した場合(12.9%)とで差はなく、また、地上3年保存(12.4%)や6年保存(12.1%)とも差は見られなかった。今回の研究で、宇宙で6年間保存した精子から合計168匹の産仔が生まれたが、いずれも外見は正常であり、網羅的遺伝子発現解析でも異常はみられなかったという。一部のマウスについては性成熟後に交配し、健康な仔および孫が生まれることを確認した。
研究データ蓄積により、宇宙長期滞在時の放射線の影響や耐性が明らかになることに期待
将来、人類が宇宙で生活する時代には、不妊治療や家畜の人工授精のために、保存精子から子孫を作ることが今以上に行われると考えられるという。今回の研究は、宇宙でも保存精子を使った生殖が可能であることを初めて示した。また、フリーズドライ精子の放射線耐性(最大30Gy)と、実際に被ばくした宇宙放射線量(0.41mGy/日)から、フリーズドライ精子は理論上、約200年間 ISSで保存できることもわかった(30,000mGy÷0.41mGy÷365日=201年。ただし、実際の宇宙放射線にはさまざまな種類や線質の放射線が含まれているため、この値はX線照射実験との単純な線量比較にすぎない)。
今回のように長期搭載実験のデータを蓄積することにより、宇宙で長期滞在した時の放射線影響や耐性が明らかになることが期待される。同研究から、フリーズドライ精子の技術を用いれば、2024年から建設が始まる月周回有人拠点「ゲートウェイ」内で深宇宙放射線の研究も可能になるという。研究グループはJAXAと共同で、ゲートウェイでの研究に採択されることを目指した予備実験を開始している。
一方、現在の地球においても、生物多様性、すなわち遺伝資源は人類の貴重な財産であり、可能な限り多くの遺伝子資源を永久に保存する必要がある。同研究で使用した精子の凍結乾燥保存技術を用いれば、動物の遺伝子資源も植物の種子と同様に簡単に保存できるようになるが、地球上には大地震や洪水、温暖化の影響などがあるため、長期間安全に保管できる場所はないと考えられる。
「もし最近発見された月の縦孔に動物の遺伝資源を保管することができれば、将来必要になるときまで安全に保存できるだろう。宇宙時代が到来した時、新天地で地球の動物種を維持するためには、それぞれの種で多数の個体を運ぶ必要がある(近交退化を避けるため)。本研究は、月で安全に保存してある凍結乾燥精子を利用することで、各動物種の遺伝資源を他の星へ運搬するためのコストを大きく減らせることを示している」と、研究グループは述べている。
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・山梨大学 プレスリリース