■ヒストン修飾が遺伝情報制御
デビッド・アリス博士は、誰もがDNA研究に没頭した1990年頃、真核生物の染色体を構成する蛋白質の“ヒストン”に着目した。そして96年、ヒストン蛋白質に“アセチル化”という化学変化が起こり、遺伝情報の発現制御への関与を突き止める。DNA配列の変化を伴わない染色体制御メカニズム「エピジェネティクス」を切り開いた瞬間だ。第30回日本国際賞を受賞したアリス氏は、本紙のインタビューに対し、「負け犬だった私にとっては、おとぎ話のような発見」と振り返り、ヒストン蛋白質の化学修飾を標的とした治療法開発や、再生医療への応用にも研究意欲を示している。
アリス氏は1951年、米国オハイオ州シンシナティに生まれ、シンシナティ大学に入学。「生物学」を専攻し、基礎研究の魅力を知り、特に発生学にのめり込んだ。
インディアナ大学大学院で生物学の博士号を取得し、ロチェスター大学、バージニア大学と研究拠点を移し、ショウジョウバエなど様々な生物を用いて、染色体の機能に関する研究を行っていた。やがて単細胞生物「テトラヒメナ」のヒストン研究と辿り着く。
長さ2mのDNAは、ヒストンという蛋白質に巻きつきヌクレオソームという単位になり、ヌクレオソームの繰り返し構造がらせん状につながることで、染色体の中で「クロマチン」という構造ができる。アリス氏は、DNAの塩基配列に異常がない場合でも、ヒストンが化学修飾されることで、遺伝子の活性制御に重要な役割を果たすと考えた。
そして、ヒストン蛋白質の修飾によるクロマチンの構造変化が、遺伝子の活性制御である機構を突き止めた。ヒストン蛋白質の修飾・脱修飾の化学反応を担う「ヒストンアセチル化酵素」を発見したのだ。
この酵素は、ヒストン蛋白質にアセチル基を結合させ、ヒストンに対するDNAの巻きつきがゆるくほどかれた状態を引き起こし、遺伝情報を読み取らせるよう活性化に働く。
逆に脱ヒストンアセチル化酵素は、ヒストンに結合したアセチル基を離れさせることで、ヒストンとDNAを強く結合させ、不活化に働きかける。ヒストンアセチル化酵素とヒストン脱アセチル化酵素のバランスによって、遺伝子発現が制御されることを初めて明らかにした。
■「絶対にあきらめない」‐酵素発見に日夜研究
90年当時、研究者たちが熱心だったのは、DNAに関する研究だった。53年にワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見して以来、研究者の誰もが、DNAに書き込まれた情報がどのような生命現象を引き起こしているかを解き明かし、DNAに直接作用する因子を探す。DNAから疾患機序の解明に傾注しようとしていた時期だった。
一方、ヒストンのアセチル化に目をつけたアリス氏だが、「私は負け犬だった」と当時を振り返る。周囲の見方は、「ヒストンの化学修飾は、面白い分野だが、研究対象ではない」。研究環境としては、向かい風を受けていた。「研究室でも一番下っ端で、研究資金も限られており、失業してしまうのではないか」との危機感で夜も眠れない日が続いた。
日夜、ヒストンのアセチル化酵素を突き止める研究を進めるものの、困難は続く。ヒストンの配列中に含むアミノ酸のリジン残基を酵母で置換し、アセチル化を引き起こそうとしたが、何の化学反応も起きなかった。
このとき、「全てが終わった」とアリス氏は感じたという。研究資金にも限りがあり、一縷の望みも絶たれた。転職を考える日々。それでも、家族からの励ましと、絶対にあきらめないという忍耐力で最後までやり遂げようと研究を続けた。
そして、神様は微笑む。酵母を使って、ヒストン配列内の特定の場所にあるアルギニン残基を置換したところ、アセチル化に成功した。アリス氏は「危ないところだったが、一番つらいときに突破口が開けた」と話す。
なぜ、ヒストンにそれほどまでこだわったのか。「あらゆる生物が保有し、進化の過程で保存されてきたものだから」。生命現象を知るための“ガイド”になるとの読みは、見事に的中した。
■ボリノスタットで実用化‐再生医療にもチャレンジ
失望の日々から、「わくわくした時期」へ。研究成果からエピジェネティクスな調節因子と疾患との関連性が明らかになり、やがて医薬品開発、実用化へと結びつく。米メルクが開発した脱アセチル化酵素阻害剤「ボリノスタット」。皮膚T細胞リンパ腫治療薬として、日米などで発売されている。
創薬標的は掘り尽くされ、新薬開発の環境は厳しい状況を迎えている。ただ、ヒストン蛋白質の修飾・脱修飾は酵素が触媒する化学反応であり、今後疾患との関連性で研究が進展すれば、低分子医薬品の創薬の可能性も膨らむ。アセチル基だけでなく、メチル基がヒストンに結びつき、遺伝子発現を制御する“メチル化”の研究も進行中だ。アリス氏も「もはや“不思議なパズル”ではなく、分子構造なども明らかになってきた」と手応えを語る。
そして、再生医療への応用にもチャレンジする。幹細胞やリプログラミングに重要な役割を担うヒストン蛋白質の一部を、京都大学の山中伸弥教授が発見したiPS細胞作製に使う「山中遺伝子」に結合させることで、新たな知見を得ていきたいと語る。63歳になり、大きな成功を収めても、研究への意欲は少しも衰えていないようだ。