欧州・北米に比べ、遺伝情報による差別の議論や先行研究は不十分
東京大学医科学研究所は6月13日、遺伝情報による差別防止に関連した日本の政策を概観し、さらに、遺伝情報の不適切な利用および遺伝情報による差別に対する、市民における法規制のニーズについて調査を行い、その結果を明らかにしたと発表した。この研究は、同研究所附属ヒトゲノム解析センター公共政策研究分野の武藤香織教授らの研究グループによるもの。研究成果は「Journal of Human Genetics」に掲載されている。
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遺伝情報による差別(genetic discrimination)は、人に対する遺伝学研究における倫理的・法的・社会的課題の古典的な事例だ。その定義は複数存在しているが、共通する特徴は、「遺伝的差異に基づく個人または集団の不公平または否定的な扱いを実際または認識すること」であるが、北米や欧州と比較すると、東アジアでの議論や先行研究が不十分だ。
2000年「ヒトゲノム研究に関する基本原則」発表以来、日本の政策は進展していなかった
研究グループはこれまでの日本の政策を取りまとめた。2000年、日本政府は「ヒトゲノム研究に関する基本原則」を発表した。この基本原則には、「(研究試料)提供者は、研究の結果明らかになった自己の遺伝情報が示す遺伝的特徴を理由にして差別されてはならない」(第16条)という項目が含まれ、法制定の必要性にも言及されていた。しかし、2001年に文部科学省、厚生労働省、経済産業省が共同で策定した「ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針」には反映されず、その後も法制度の拡充は進んでいない。
2003年に日本の遺伝医療に関連する10学会が示したガイドラインでは、医療従事者に対して、遺伝学的検査を受けた人が教育、雇用(昇進を含む)、保険加入などの面で差別されないように対処するよう求めていた。しかし、これらの記述は、2011年に日本医学会のガイドラインとして改定された時にすべて削除され、2022年の改定時に一部が復活した。
2015年に個人情報保護法が改正され、ゲノム医療に関わる情報の定義をするため、2016年に厚生労働省は「ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフォース」を設けた。しかし、その報告書では、日本に遺伝情報による差別を直接規制する法がないことは確認されたものの、現行法でできることの説明に留まっていた。
立法府では、2015年に超党派の国会議員が勉強会を結成し、2018年に「適切な遺伝医療を進めるための社会的環境の整備を目指す議員連盟」(以下、ゲノム議連)が発足したものの、法案作成に至らない状態が続いていた。一方、政府が本格的なゲノム医療推進政策を開始したことから、2017年以降、患者コミュニティが遺伝情報による差別禁止法制を求めて、要望書の提出や集会の開催等の運動を開始した。
「ゲノム医療法」国会で可決・成立
2022年4月、日本医学会・日本医学会連合長、日本医師会長が、政府や国会等に遺伝情報による差別禁止の規制を求める共同声明を発表すると、5月に生命保険協会と日本損害保険協会から、現在、引受・支払実務において遺伝学的検査の結果は収集していない旨の見解が発表された。同年10月、ゲノム議連から「良質かつ適切なゲノム医療を国民が安心して受けられるようにするための施策の総合的かつ計画的な推進に関する法律案」(以下、ゲノム医療法案)の内容が発表されると、学会、患者・家族会、産業界等約250団体が法案の早期成立を支持する運動を開始した。同法案は2023年6月9日に参議院で可決され、成立した。
2017年/2022年に意識調査、「遺伝情報が病気の予防に役立つ」の回答割合増
研究グループは、日本の市民を対象として、2017年と2022年に、遺伝情報による差別的な取り扱いを受けた経験や、遺伝情報の利用に関する期待や懸念、遺伝情報による差別や不適切な利用を防ぐための法規制のニーズに関して、意識調査を実施した。
調査の結果から、2017年、2022年ともに、回答者の約3%が、自身または家族が何らかの遺伝情報による差別的な取り扱いを受けた経験があると回答した。遺伝情報が病気の予防に役立つと思うと回答した人の割合は、2017年では65%、2022年では69%と増加していた。
一方、遺伝情報の不適切な取り扱いや、遺伝情報による差別の懸念があると回答した人の割合は減少していた。先行研究において、市民よりもがん患者とがん患者の家族の方が遺伝情報の利用や遺伝情報による差別に関する懸念が高いと報告されている。しかし、今回の研究では、回答者の健康状態や家族の病歴について検討していないため、遺伝情報の利用や遺伝情報による差別に関する懸念が減少しているという結果の解釈には注意が必要、としている。
「何らかの法規制が必要」と両年ともに7割以上が回答
遺伝情報の不適切な取り扱いや遺伝情報による差別に対して罰則のある法律が必要かについて尋ねたところ、2017年は71%、2022年は75%の回答者が、何らかの法規制が必要であると回答した。項目別では、同意なく遺伝情報を第三者に提供・転売することに対する法規制を必要とする回答が最も多く、2017年は57%、2022年は63%だった。雇用における遺伝情報による差別については、2017年は47%、2022年は51%、民間保険における遺伝情報による差別については、2017年は39%、2022年は44%の回答者が罰則付きの法規制が必要と回答した。
「罰則付きの法規制」、女性や高齢者が必要性をより感じている
さらに、遺伝情報の不適切な取り扱いや遺伝情報による差別について、罰則付きの法規制のニーズに関連する回答者の特徴について分析した結果、女性、年齢が高いこと、遺伝学の知識が高いこと、遺伝情報の利用に関する利点を高く評価していること、遺伝情報の利用に関する懸念が高いこと、医療機関で遺伝学的検査を受けることに関心がある人が、より法規制の必要性を感じていることが示唆された。
北米で行われた先行研究で、女性や高齢者はプライバシー懸念が高いと報告されている。女性や高齢者はプライバシー懸念が高いために、遺伝情報に関する法規制の必要性を強く感じているのではないかと考えられた。また、民間保険における遺伝情報による差別に対する法規制のニーズが他の項目よりも低かったのは、日本には皆保険制度があるためかもしれない、と研究グループは考察している。雇用における差別に対する法規制について、回答者の約半数が法規制の必要性を認識していたが、政府や産業医、雇用主、労働組合の間でまだ議論が行われていない。労働者に利益のある扱いと差別的な扱いの区別について、早急に検討が必要と考えられる。
結婚・妊娠をめぐる遺伝情報による差別については、欧米に比べてアジアで深刻な懸念があると指摘されており、今回の調査においても約4割が懸念を示した。遺伝情報による差別を容認しないという法律ができることによって、ヒトゲノムや多様性を尊重する意識が高まり、このような私的な領域における差別への懸念の軽減につながると期待される。
ゲノム医療法案の制定による差別予防、社会的包摂に期待
日本における遺伝情報による差別の法規制について市民の意識が初めて明らかになった。ただし、調査の限界点として、回答者の体験について客観的な検証は困難であることには留意が必要だ。また、回収率の低さは、ゲノム医療全般への市民の関心の低さを反映している可能性がある。
「罰則はないが、ゲノム医療法案が制定されれば、遺伝情報による差別の疑いがある事例への注目が集まり、その予防や社会的包摂への寄与が期待される。一方、今回の調査において罰則付きの法整備を望む声が多く、その数が増える傾向にあったことを政府は重く受け止めるべきと考える」と、研究グループは述べている。
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